『死を口にするのはタブーではない! ~死にたくなった人を救う力とは?~』


「死にたい」

と口にすることが、いまの世の中ではタブーとされていると思う。

もし、「死にたい」と、あなたが誰かに言われたら、どうしますか?

「そんなこと言わないで」でしょうか?
それとも「死んだら、あかん」でしょうか?
それとも「なんで死にたいの?」でしょうか?

僕は思う。

「そんなこと言わないで」

という言葉は、その人の気持ちを理解しようともせずに否定するだけで、死にたいと思っている人の力にはなにもならない。

僕は思う。

「死んだら、あかん」

という人は他人を大切にする人。
でも、なにかが違う。
先を急ぎ過ぎている。
死にたいと思っている人には響かない言葉。

僕は思う。

「なんで死にたいの?」

って、訊く人は、死にたいと思っている人を理解し、寄り添おうとしている。
だから、「死にたい」と誰かに言われたら、「どうして?」って聞くことが大切だと思う。
たとえ死にたい理由を話しても、なにも解決しないことのほうが多いだろう。
それでも少しだけ良いことがある。
死にたい気持ちを受け止めてくたり、辛い状況や心境を聞いてくれるだけで、人は心が軽くなる。
あ~こんな自分を見捨てない人がいるんだと思う。

「死にたい」という気持ちを口に出せないと、家族や友人たちが状況を把握できずに孤立してしまう。
孤立することで「死にたい気持ち」はどんどん深刻な闇へと落ちていく。
だから、「死にたい」という気持ちを打ち明けられる社会と人間関係が自死を減らす力となる。

「死にたい気持ち」はマイナスのエネルギー。
人の心にある「生きる力のダム」に穴をあけて、生きる力を放出してしまう。
だから、「生きる力のダム」に誰かが「生きるエネルギー」を供給してあげることが必要。

たとえ善意であっても注意しなければならない言葉がある。
簡単に「死んじゃダメ」「なんとしても生きろ」なんていうことは、死にたい気持ちになっている人を救う力とはならない。

なぜか?

自ら死を選ぼうとしている人の心は「生きることに敗れそうになっている人」。
自分で自分の存在を否定しようとしているということ。
自分の人生を否定して強制消去しようとしていること。
そこへ、「ダメ」と否定される言葉を言われると、余計に傷つく。
生きる力にはならない。

それと、死を考える人は、どうやってこの苦境を乗り越えるのかがわからなくなっている人。
「生きる方法」がわからない、「生きる意味」が見つからない、だから「死」を選択しようとしている。
なのに「なんとしてでも…」と言われると、冷たい言葉としか思えない。
深い海の底に沈みそうな気持ちになる。

生きることが辛いから死を選択しようとしているのだから、まず必要なことは、その人の「辛さ」「深い悲しみ」「苦悩」を理解しようとすること。
その人の苦しみや辛さを受け止めてあげること。

もし、あなたが親しい人から「死にたい」と打ち明けられたら、その人の死にたい気持ちを否定しないこと。

これは医療における治療行為と同じ意味がある。
まずは死にたい気持ちに寄り添うことが、応急処置となる。
そして、応急処置が済んでから本格的な治療に入る。

いきなり「生きろ」といわれると応急処置なし、麻酔無しで腹をかっさばいて大手術をするようなもの。
助かることもあるかもしれないが、死んでしまう可能性が高くなる。

人が人生を歩む中において死にたくなるのは、ある意味で当然だと思う。
なぜなら、人生には四苦八苦が待ち受けているから。

四苦八苦とは?

「生」、母の胎内よりこの世に生まれる苦しみ。
「老」、肉体が老いていく苦しみ。
「病」、肉体が病に侵される苦しみ。
「死」、肉体生命が終了し、人生を閉じる苦しみ。

憎しむ者と出会う「怨憎会苦」。
愛する者と別れる「愛別離苦」。
求めるものが手に入らない「求不得苦」。
五官からくる煩悩が燃え盛る「五陰盛苦」。

この四苦八苦から逃れられる人は誰もいない。

人生とは、辛いことが必ず起きる宿命を背負っているのです。
だから、人生の途中で「死にたくなる」ことが起きても当然と思えるのです。

だけど、そこでどうするのか?
というのが、その人とその人の周りにいる人の「人生の問題」なのです。

死にたくなった人を救う力は、
「死にたくなった人の辛い現状や体験、気持ちを聞いてあげること」
「死にたくなった人の気持ちに寄り添うこと」

ではないでしょうか。

つばさ

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