いま、全世界でそうした思いで生きている人が増えているのではないでしょうか?
なぜ?
いつ、どこで「新型コロナウイルス」に感染するか分からないからです。
新型コロナウイルスに感染しても必ず死ぬとは限らないじゃないか?
「俺は若いからコロナにかかっても治るはずだ」
と思っている人もいるだろう。
それでも、自分が死ななくても、親や祖父母、友人などがコロナにかかるかもしれない。
もし、家族や友人などの大切な人がコロナにかかって命を落としたら、いまは死に顔さえ看取れない。
それは否が応でも「死生観」を変えてしまった。
新型コロナウイルス発生前の世界と、新型コロナウイルス発生後の世界では、社会の在り方が大きく変わってしまった。
いや変化させられてしまったと、みんな思っているだろう。
「人と人との接触ができなくなる」
「人と人が距離を取って行動する」
そうした社会は、「愛」とは逆の生き方だと思う。
「愛」は、「受け入れること」であり、「結びつけること」でもあり、「つながること」であるからだ。
僕は思う。
新型コロナウイルスは、僕らの生活を否応なしに、捻じ曲げるように変えていった。
だけど、もうひとつ僕らの心の中も変えていった。
「死生観」「人生観」を新型コロナウイルスは“変えた”と思う。
それは「死が身近に感じられる世界を生きる」ことであり、「いつ死ぬか分からない人生」にポーンと放り出されたものだ。
「死」を生活の中で、意識せざるを得なくなった、ってことかな。
「死」は、ほとんどの人たちにとっては、「怖いもの」だと思う。
「死にたくない」「長生きしたい」「楽しく生きたい」「家族と別れたくない」
そうした願いを「死」は、切断してしまう。
だけど、いつの時代でも「死を自ら望む人」がいる。
「生きたい」ではなく「死にたい」と思う人がいる。
その苦しみの原因はひとそれぞれ。
その苦しみは味わった人でしか分からない。
でも、僕は言いたい。
人は誰でも、必ず、死ぬんだ、と。
いつか必ず死ぬのだと。
だから、たとえ今が苦しくても「死に急ぐ必要はない」。
人生を順調に過ごすだけでは「死」を意識することはない。
楽しいことばかり経験していると「死」を考えることはない。
どうしようもない事態に陥ったとき、人は死を選ぶ。
解決できない問題にぶち当たったときに、人は死に急ぐ。
今を生きることが辛すぎると、人は死ぬことしか見いだせなくなる。
今は「死生観」を変えるときじゃないかなって思う。
僕が死の灰から蘇ったのは、「死」を受け入れたからかもしれない。
僕も「死生観」が変わったんだ。
僕は「死ぬこと」自体は全然怖くない。
ただ、誰かに迷惑かけることだけを、申し訳ないと思うだけ。
僕は、明日「死んでもいい」そう思って、いまを生きている。
僕の心境を言うとするなら、「生きている」というよりも「どうやって死んでいくか」という気持ちで生きているってことかな。
いずれ来る「死」を常に意識して、いつ死んでも良いようにあらゆる執着を断ち、「今日を生きる」。
だから、僕はもう「自殺」はしない。
でも、いつ死んでもかまわないと思っている。
「生きていく」ことは、「死に向かって歩むこと」と同じこと。
「生」と「死」はコインの裏表。
「生」と「死」はつながっている。
「生きる」ということは、「死に近づいていること」だと思う。
1秒1秒、「生きている」と思うか、
1秒1秒、「死に向かっている」と思うか、
の違い。
“生きているとだけ思う”のと、“死を常に身近に意識して生きること”は違うと思う。
人は苦しみのなかで死を選ぶ。
でも、どうせ死から逃げることはできないんだ。
僕の人生にも、あなたの人生にも「死」はぴったりと張りついている。
どうせ逃げることができない死なら、受け入れて生きるしかないんじゃないかな、って思う。
“死を恐れる人生”と“死を恐れない人生”では違う人生となる。
人生にとって最悪なのは「死」。
人間にとって一番の不幸は「死」。
いずれ死んでいくのになぜ生まれてきたんだろう。
なんのために僕は生きているのだろう。
何をするために生きればいいのだろう。
人は人生から問いかけられて抜けられない迷宮へと入りこんでいく。
それが悩みの正体だ。
答えを出したいのに、答えが出てこない、それが悩みだ。
解決したいのに、解決しない、それが苦悩だ。
だけど、それが人生なんだと思う。
答えが出ないと生きていけないと思うか、答えがでなくてもいいと思って生きていくか。
解決しないと生きられないと思うか、解決しないなら解決しないでもいいと受け入れて生きていくのか。
人生に完璧なんてない。
誰の人生も不完全。
願うものがすべて叶う人生なんてない。
欲しいものをすべて手に入れられる人生なんてない。
ときにつまずき、
ときに失敗し、
ときに悩み、
ときに病に倒れ、
ときに人間関係で傷つき、
ときに挫折し、
ときに生きる力を失う。
それが人生だと思う。
でも、あなたはいま生きているじゃないか。
それは生きているのか、生かされているのか?
僕は、「人は生きているのではなく、生かされている」のだと思う。
それに気がつくと、「死」は怖くない。
自ら「死」を選ぶ必要はなくなる。
いま僕らは、新型コロナウイルスの存在によって「死」を身近に感じなくてはいけない状況にある。
でも、それは考え方を変えればいいことかもしれない。
それは自分の死だけを考えるだけではすまなくなるからだ。
多くの人たちの死を感じずにはいられないからだ。
人はいつか死ぬもの。
ならば、「いまを生きる」しかない。
死を恐れて生きるのではなく、いつかやってくる死を受け入れて生きていくことの違いに気づくこと。
死にたくないと思って生きるのと、いつか訪れる死を覚悟しつついまを精一杯生きるのとは違う。
そう思う。
人は誰でも、いつか訪れる死に向かって歩んでいる。
だから「生きること」は「どうやって死んでいくのか」ということの裏返しだと思う。
それが僕のいまの「死生観」だ。
いま「死にたい」と思っている人に伝えたい。
「死ぬこと」を覚悟したのなら、強く生きられるはず。
あなたは人生のなかでとても大切な経験をしたんだ。
死にたいと思ったあなたの気持ちは、乗り越えることが出来たなら、苦しんだ分だけ優しさに変る。
苦しみが多ければ多いほど、よみがえったあなたは強くなる。
僕は思う。
人間の住む世界に「死にたい人の気持ち」が分からない人ばかりだったら、とても息苦しい世界になってしまうと。
人が死にたいという気持ちを理解出来る人がいることが、人間の世界でとても大切な存在だと思うし、必要な存在だと思う。
いま「死にたい」と思っている人がいたら伝えた。
あなたはいまとても貴重な体験をしているのです。
その死にたくなった苦しみを味わったことで、あなたは他人の苦しみが理解できる人に生まれ変わったのです。
そう、いままでのあなたはすでに死んだのです。
だから生きてください。
あなたが生きることで、世界に優しさがひとつ増えるからです。
世間は厳しく、人生は辛いものです。
だからこそ、他人の苦しみを知り、優しさを持った人の存在が欠かせないのです。
死を考えたあなたは“生きる使命がある”のです。
自分が味わった死の苦しみを優しさに変えて、寿命尽きるまで歩んでいくことがあなたの人生なのです。
人の住む世界には、良心も倫理も持ち合わせていないような人がいます。
人間の仮面をかぶった獣のような存在がいます。
他人を傷つけても平気な人がいます。
他人からなにかを奪っても罪悪感を持たない人もいます。
だけど人の世が、そんな存在でいっぱいになったら、それこそ世界は苦しみの世界でしかなくなります。
だから、死にたくなった人の存在が必要なのです。
それに気がついてください。
真剣に、と言ったら変ですが、死を選択したときにあなたはもう死んだのです。
その灰の中から蘇ってください。
いままでのあなたはもういません。
あなたの苦しみは誰かの苦しみと同じです。
あなたは他人の苦しみが心底理解できる人間へと生まれかわったのです。
だから生きるべきです。
生きてほしいのです。
死にたくなったほど苦しい状況を味わった人こそ生きるべきです。
他人の苦しみが分かる人が世界には必要なのです。
だから、生きて欲しい!
辛くなったらいつでも、ここへきてください。
僕はいつでも待っています。
なぜなら、ここにある言葉は僕の心だからです。